密蔵院略縁起

 当院は南北朝統一の頃、称光天皇の応永年間(1413〜1427)土浦領主が鎮護国家の道場として亀崎村に創建し、山王山一乗院円満寺と号して天台宗でありました。
 初代安然・歸一・十妙・観道・台学と継承し、藤原氏が衰え平家一族が没落して鎌倉領となり、豊田城主赤津四郎の支配となったが、永正13年(1516)11月23日に出火して諸堂すべてを焼失しました。その後53年間無住となったが、永禄10年(1567)2月高野山の僧賢仁僧都が入住し、堂宇を再建し改宗して真言宗となり、恵心僧都の作と伝わる大日如来笈仏地蔵尊を祠って本尊とした。天正4年(1576)8月筑波普門寺より辨能が入住し、中興第2世の衣鉢を受けたが、第3世辨妙の時代に豊田城主赤津四郎がほろびて下妻領となった。
 天正6年(1578)11月21日新義真言宗に改宗し、寺号を山王山円満寺密蔵院と改めた。本尊大日如来・弘法大師・興教大師を奉安して、金剛界・胎蔵界の両界曼陀羅と十三仏を納めた。
 文禄2年(1593)2月3日、下妻領主修理太夫の代官袋弾正から密蔵院を亀崎村より四ヶ村弥陀ヶ原弥陀堂の地に移転せよとの命令があった。その理由は、四ヶ村一帯は沼池が多く土地高面(税高)のために住民が他国に離散するので代官はまことに苦慮していたからである。時の住職辨妙は移転を承知すると返答したので、領主は大いに喜び玄米二十俵銭百貫匁を下された。文禄2年(1593)2月21日亀崎村円満寺塚より四ケ村弥陀ヶ原弥陀堂に移転して落慶入仏供養を盛大に行った。弥陀ヶ原を見田と改め、 寺運次第に開けて他国より移り住む者が次第に増加し、文禄4年(1595)4月の調べによれば四ヶ村の農家戸数は480軒であった。新たに家を作って移り住んだ者は寺西21戸・長萱18戸・袋11戸・唐崎24戸・伊古立26戸となった。下妻領主より辨妙に下妻多宝院と同等の格式とするとの御沙汰があり。近郷七ヶ寺の支配を命ぜられた。
 その後享保2年(1717)11月17日己刻に出火して堂塔を全焼してしまった為に、第17世博幽と長老宥榮法師は本堂再建と梵鐘鋳造を発願し、諸国を巡鐸托鉢して勧進帳を廻した。
 宝暦6年(1756)11月に本堂(現在のもの)を再建して落慶入仏供養した。その後嘉永4年(1851)10月に本堂の大修繕を行い、戸障子を新調し仏具を購入して寺容を整えた。昭和44年4月15日には梵鐘・鐘楼堂を復興再建し、落慶開眼法要を厳修した。近年では平成3年客殿新築を発願、平成6年に落慶した。又、平成11年12月には「密蔵院本堂建設委員会」が発足し、平成16年の新本堂完成を目指して、檀徒一丸となって努力しているところです。


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